死なない程度に頑張ろう

眼鏡が無駄に考えたり考えなかったり

暴論:脈

Twitterのタイムライン流れてきた「人脈」という言葉。個人的には、一般というか大学生が語る「人脈」には胡散臭いものを感じます。この理由はなんなのか。「脈」という漢字から考えてみます。脈で連想する言葉には山脈、脈拍、鉱脈、水脈、脈絡などがあります。では、「脈」にはどんな意味があるのでしょうか。
 
新漢語林によると、脈には血の筋や筋になって続いているものという意味があるそうです。なるほど、確かに先ほど挙げた熟語にはこれらの要素が含まれています。しかし、挙げた熟語を眺めていると一部には「重要なものが含まれた連なり」という意味もあるのではと考えています。脈拍には血液が、水脈や鉱脈は言わずもがな、人間にとって一定の価値を持っているものに「脈」と付いているように思えます。ただのつながりやつらなりなら他にも適当な漢字があるでしょう。「筋」なり「連」なり。
 
とまあ、そんないい加減な持論を元に「人脈」という言葉について思考を進めます。「脈」に重要なものが含まれているとして、「人脈」には何が含まれているのか。考えれば恐らく信頼とか過去の経験が当てはまるのでしょう。ところが、大学生の語る人脈にはどうもその要素が薄いように感じます。会っておけばそのうち役立つさという感覚で、形だけ作っておきましたという印象が強いです。また、人脈が自分の利益のためだと考えても、自分が相手に対して便益をもたらすと期待できない限り人脈はその効果を十分に発揮しないでしょう。互恵的なものが人脈であって、一方だけが益を受けることに一体誰が手を貸すでしょうか。
 
ここまで考えて、語られる「人脈」の胡散臭さはその脈に当たる部分の欠如から来ているのではないかという考えに至りました。脈なのに血が通っていない、ただの管と化したつながり。また、結局はコネなのに人脈と言い換えることで体をよくしている風に見えるのも一因かもしれません。
 
実際のところ、「人脈」のない自分が「人脈」について語るのはすっぱい葡萄であり、人脈を広げることを考えない自己の正当化なのかもしれませんが、それでも安易に人脈を広げるなどと語るのはいかがなものでしょうか。そんな感じの穴だらけの意見でした。