死なない程度に頑張ろう

眼鏡が無駄に考えたり考えなかったり

「悪いのは犯人だ」に思うこと

いつぞやのISIS人質関係でもありましたが、「〇〇が悪い」に対して「悪いのは犯人」という返しがあります。今朝も乳児殺害事件で、「母親が父親に預けたのが悪い」に対して「悪いのは殺した父親」という旨のツイートを見ました。個人的には、このやりとりに関してモヤモヤするものがあります。双方の「悪い」という言葉の内容にズレがあるのではないかと。

 

そんなわけでgoo辞書で「悪い」の項目

dictionary.goo.ne.jp

1 人の行動・性質や事物の状態などが水準より劣っているさま。

2 人の行動・性質や事物の状態が、正邪・当否の判断基準に達していないさま。

3 不吉である。縁起がよくない。めでたくない。

4 (多く「悪くなる」の形で)食べ物が傷んでいる。食べられないほど鮮度が落ちている。

5 謝罪・感謝の意を表す語。申し訳ない。すまない。

6 名詞に付いて、不快な気持ちを表す形容詞をつくる。

 

とあります。注目すべきは1と2の部分です。1の意味についてはいわゆる優劣を論ずる意味でありますし、2は善悪を示しています。1の用方では「悪手」、2の用法では「悪行」という熟語などが当てはまりそうです。

 

そんな2つの意味で先述のやりとりについて考えると、「〇〇が悪い」は1の用法で、「悪いのは犯人だ」は2の用法でしょう。最初の乳児殺害事件に関するやりとりに当てはめると、父親に子を預けてしまったのは悪手であって、父親がした殺害は悪行です。双方で悪いという同じ言葉を使っているものの、その意味は異なっています。ここの違いがモヤモヤの根底にあるのでしょう。

 

事件について「悪いのは犯人だ」の一言で終わらせるのは簡単です。しかし、感想戦と表現すれば失礼ですが、一連の流れを振り返り、どの行為が良く、どの行為が「悪かった」(適切ではなかった)か考えることは決して悪いものではないと思います。「〇〇が悪い」側が真面目に2の思い・用法で語っているかもしれませんけど。そんな同じ言葉で定義の違いがあるのではないかという話。

ほどほどやそれなり

一ヶ月以上放置していましたが、私は元気です。ついに大学4年生になりました。講義はゼミだけになり週休6日です。就活ありますど。就職活動ではエントリーシートを提出したり、グループディスカッションでお祈りされたりと各方面で進んでいます。説明会等で馴染みのない所に行く機会も多いため、現在はその帰りに付近の評判の店に行くのが趣味になってます。それに加え知的好奇心マンゆえ、始まってみたら説明会等で知識が増えるし思ったよりは楽しいというのが現在の心境です。もっとも、今後の選考の行方でメンタルは簡単に二転三転しそうですが。

 
以前より気になることとして、「ほどほど」「それなり」といった表現があります。いい塩梅ににして欲しいという気持ちはわかりますが、結局の所その程度はわかりません。何かしら極端な問題が発生しない場合を指すという話を聞いたことがありますが、問題の有無は事後的に判明するもののため、言われた側としてはどう動くか悩ましいものです。翻って使う側に立つと、自分も適当な程度がわからないけどとりあえず現状の変更を要すると感じれば言えるので便利なものです。自身も無責任に濫用してますし。ほどほどの早口、それなりの好意、そこそこの成績、使う側も使われる側も「それなり」にモヤモヤするものです。これらの程度を示す言葉は汎用性が高いですが、具体性に欠けるので、使う頻度は「ほどほど」にする方がいいのかもしれません。最近もその手の表現を勘違いして痛い目にあいましたし。

物欲から購入までの過ごし方(と近況報告)

知人から記事を書けと言われていたし、1ヶ月以上放置していたので何かしらを。

 

とりあえず近況報告です。3月1日から就活解禁となりました。解禁と言っても経団連に入っている企業に関してであって、入会していない外資系やらは前からやっていますけど。経団連に入っていてもインターン等で囲っていますし。それでも、これで多くの企業は堂々と採用活動を行うことができるようになりました。説明会が沢山です。スケジュールはポツポツ埋まる程度が理想の私ですが、3月は黒いこと黒いこと。いくつかの合同説明会に行って感じたのですが、就活は体力精神力時間のリソースを管理するゲームですね。艦これやとうらぶ(未プレイ)みたいな。経団連的には8月から内々定を出していいとのことですし、このリソース管理ゲームはまだまだ続きそうです。どうでもいいですが、キチョハナカンシャを一回も聞いていないのは運がいいのでしょうか。

 

少し前にカメラを購入したのですが、その決断に至るまでに1ヶ月ほどの時間がかかりました。レンズマウントにセンサーサイズ、携帯性、値段、何よりバイト代を飛ばす覚悟と諸要素との折り合いをつけるためです。かくして後悔のない選択をしようと、費やした時間で何をしたかというと、情報収集に尽きます。スペックやらレビューやらブログやらを見るわけですが、この段階がなかなかに楽しい。調べた情報から購入後の自分の想像を膨らませているせいなのでしょうか。表現しがたいのですが、第三者から見たら取らぬ狸の皮算用という表現をされるようなことが本人の中では起こっているのでしょう、たぶん。果てには今日もまた商品について調べること自体が楽しみとなってしまい、購入することの影が薄くなりもします。しかしながら、調べること自体が楽しみになるなら買わなくていいじゃんとはならないのです。買うという思いがあるから購入後の自分が想像できるのであって、はなから買う気がないから想像する気概も生じません。ということで、買うまでの調査も買う楽しみのうちという話でした。

買ってしばらくの間は「どうして買ってしまったんだ」と決断を後悔するのですが、これはどうしてなんでしょうね……。

新年1ヶ月経ちましておめでとうございました

大晦日から放置して1ヶ月。もう2月まで1時間ないですがあけましておめでとうございました。1ヶ月の間に近所の神社と伊勢神宮熱田神宮に初か怪しい初詣に行ったり、テスト科目に文句を垂れたりと過ごしていました。昨日テストが終わったので晴れて今日は春休みでもあります。

 

春休みですが、3月からは就活突入のために2月は好き勝手出来るかは怪しい感じではあります。後ろ倒しだからこの休暇にはインターンが盛りだくさん。そんなわけで適当に出して適当にES落ちしました。面接の練習をしたいと語って面接にこぎつけられなかったフラグ回収劇。競争率の上昇と周りのクオリティの向上が原因だと考えつつも、夏から退化していていて笑えます。笑ってられませんが。しばらく就職留年(または就職浪人)が夢に出ましたが、テストでうまい具合に意識が逸れたので事なきを得ました。気がついたら手元に内定と卒論が置かれていないかと思いつつこの春休みは勉強に励む所存です。

 

話は変わって美術館について。テストが終わったその日に名古屋ボストン美術館ジャポニズム展を観てきました。日本美術が海外に与えた影響について日本と西洋の両作品とともに解説があるのですが、自分からしたら「言われてみたらそうなのかもしれない」レベルが結構ありました。研究者がそう考えたんだからそうなんでしょうと権威主義的に納得しましたが。作者も意識せずに日本美術のエッセンスを取り入れていて、それを研究者が暴いたという見方も出来るかもしれません。同様に自分も無意識に誰かの何かを取り入れた言動をしているのだろうと思ったり。それこそマニアックな誰かがつぶさに観察しないと気づかない程度の影響かもしれませんけど。

 

話があちこち飛びましたが、とりあえず今年はうまいこと収まるところに収まって欲しいと思う新年です。

ゆく年くる年

早いもので2014年が終わろうとしています。年を取ると時間の経過が早く感じるとは言いますが、齢21にして体感としては随分と短かったので今後はどれほどのスピードになるのか期待がかかります。個人的には指数関数的はならず、逓減していく可能性を推しますが。

 

今年はゼミによる少人数指導が始まり、夏休みは神奈川へ旅行。紅葉狩りで御在所に登り、撮った写真がパソコンとともに消えたりと……。北陸の地へ他大学と発表を行い向かいもしました。家庭ではベランダに子猫がやってきて飼うことになったりと。時間の経過が早いと先述しましたが、こうかくと色々ありました。日記を見て思い出したことも多いですが。

さて、来年は2015年。16卒予定の自分にとっては就活が控える年です。16卒は就活後ろ倒しのため、時期ごとの行動予定は昨年までと異なることにまります。個人的に問題なのが公務員と民間の選考時期の被りです。3年も終わりに近いのに何だという話ですが、未だにどちらを選ぶか決心がついていません。某Mナビ的には電子電気OA、インフラ、官公庁が向いているそうですが……。現在はインフラが気になっていますが狭き門ですし。そして暫くすればまた選好が変わる未来が見えます。選択肢を残すための勉強だけは欠かさないでいきたいなとは思います。

 

悩んでいても時は無情にも過ぎ、人生の岐路は近づいてきます。経験から、どんな選択しても、結果を得ても、多少なりとも後悔は避けられないことはわかっています。それでも、最後には「まあこんなもんか。今年は悪くなかった」と総括出来るような2016年になっていけることを漠然としてはいますが目標に据えたいと思います。

情報収集による偏り

ネット上でよく見るものとして、「偏向」という言葉が挙げられます。衆議院が解散して選挙関係の報道が多い今は尚更よく目に留まる今日このごろ。そんな偏向や情報収集について思うところを勢いに任せて。

 
「面倒くさい話題」について考える時、手がかりとなる情報をどのようにして得るのかが問題です。インターネットで情報を得る際に用いるものといえば検索エンジンですが、検索ワードによって結果として出てくる情報にも偏りが生じます。特定の○○について考えたい時「○○ 問題点」と入力すれば○○に関してネガティブな情報が多く出ますし、「○○ 利点」と入力すれば今度はポジティブな情報が出てきます。また、○○について記事を書く人たちは基本的に何か思うことがあってそれを行うものですから概して否定的な内容になりがちということも考えられます。いずれにせよ、検索ワードの如何によっては最初に抱いたイメージと同系統の情報が手元に集まり、そこから更に当初の考えを強めていくという循環に陥る可能性があります。
 
意見を強化する点では主に購読するメディアについても同じことが言えそうです。読みたい、手に取りたい情報は自分の意見を否定するものではなく肯定するものですから。政治面の方針で新聞の購読を決める人もいるらしいですし。新聞以外でも、例えばキュレーションメディアは個人に合った、求める情報を提供するのが売りですが、ひたすらに自分の意見を強める一方になる点では有益なのかは気になるところです。「肉だけでなく野菜も食べろ」といった感じに、たまには全く求めてない情報を載せたらどうなるんでしょうか。レビューに星1つが並ぶ未来が容易に予想できますし難しいでしょうね。
 
少し外れますが、キュレーションアプリについてもう一つ。多くの人が読んでいる情報を載せるのもキュレーションアプリの魅力ですが、話題が均一化するのってどうなんでしょうね。「雑談力をつけよう」とどこかしらのアプリのCMでありましたが、そこから仕入れた雑談で使えるネタは他の利用者も当然仕入れているわけで。各個人が雑談力をつけたいとアプリを利用することによって全体的に話題の多様性が失われ、雑談がかえって難しくならないのかなと思ったりするわけです。もっとも、雑談については同じ話題を共有して感想等を述べる類もあるので先ほどみたいなことになる可能性はあまりないでしょうが。
 
色々書きましたが、端的には確証バイアスの話です。これを回避するには情報入手について「これさえ利用していれば大丈夫」にならないことが重要だと考えています。そもそも、公正中立という概念が客観的に存在するかは怪しいものです。それでも、自らの情報収集のバイアスを自覚して、気色の違う情報源に触れることは公正中立という理想を考える上で必要なのではないでしょうか。そんな見飽きた主張をしたいだけです。

進路や胃痛

11月となりました。すっかり寒くなり、今日はミラクルムーンという話なのに曇り空だったりの昨今。とりあえず紅葉を見に行きたい気持ちがあります。

 

紅葉といえば、先月末に山に登って紅葉を堪能し、撮った写真をパソコンに写した矢先パソコンが臨終。これ以降胃痛に悩まされています。胃痛に関しては、パソコン関係がきっかけではありますが、今は進路の悩みが原因になっています。11月から業界説明会が始まり、公務員予備校の入学はラストチャンスでさあどっちだと問いかけられている気がしてなりません。民間と公務員で悩むうちに両方中途半端になる可能性も怖いですし。別に公務員には予備校でのダブルスクールが必須だとは思ってもいませんし、独学の進捗も悪くはありません。しかし、周囲の人の様子を見るとこれでいいのかと不安になるのが自分の性格。高3で周りが学校での自学自習を申し込んでいたことを思い出します。自分が職に何を求めていて、一長一短な民間と公務員からどちらを選ぶのか決断はできないままです。日によってブレますし。ここに悩みを書くくらいなら大学の就職支援室にでも行っておけという話でもありますが。

 

前述の類から陥る、「悩んで気づいたら片方の選択肢が消えていた」というものは過去に何度も経験しています。人生を振り返ると機会損失という言葉にまとめられそうなくらい。齢21でいい加減に進歩しろという話であります。何も考えずにスー過去進めるだけの作業の気楽さよ。