死なない程度に頑張ろう

眼鏡が無駄に考えたり考えなかったり

情報収集による偏り

ネット上でよく見るものとして、「偏向」という言葉が挙げられます。衆議院が解散して選挙関係の報道が多い今は尚更よく目に留まる今日このごろ。そんな偏向や情報収集について思うところを勢いに任せて。

 
「面倒くさい話題」について考える時、手がかりとなる情報をどのようにして得るのかが問題です。インターネットで情報を得る際に用いるものといえば検索エンジンですが、検索ワードによって結果として出てくる情報にも偏りが生じます。特定の○○について考えたい時「○○ 問題点」と入力すれば○○に関してネガティブな情報が多く出ますし、「○○ 利点」と入力すれば今度はポジティブな情報が出てきます。また、○○について記事を書く人たちは基本的に何か思うことがあってそれを行うものですから概して否定的な内容になりがちということも考えられます。いずれにせよ、検索ワードの如何によっては最初に抱いたイメージと同系統の情報が手元に集まり、そこから更に当初の考えを強めていくという循環に陥る可能性があります。
 
意見を強化する点では主に購読するメディアについても同じことが言えそうです。読みたい、手に取りたい情報は自分の意見を否定するものではなく肯定するものですから。政治面の方針で新聞の購読を決める人もいるらしいですし。新聞以外でも、例えばキュレーションメディアは個人に合った、求める情報を提供するのが売りですが、ひたすらに自分の意見を強める一方になる点では有益なのかは気になるところです。「肉だけでなく野菜も食べろ」といった感じに、たまには全く求めてない情報を載せたらどうなるんでしょうか。レビューに星1つが並ぶ未来が容易に予想できますし難しいでしょうね。
 
少し外れますが、キュレーションアプリについてもう一つ。多くの人が読んでいる情報を載せるのもキュレーションアプリの魅力ですが、話題が均一化するのってどうなんでしょうね。「雑談力をつけよう」とどこかしらのアプリのCMでありましたが、そこから仕入れた雑談で使えるネタは他の利用者も当然仕入れているわけで。各個人が雑談力をつけたいとアプリを利用することによって全体的に話題の多様性が失われ、雑談がかえって難しくならないのかなと思ったりするわけです。もっとも、雑談については同じ話題を共有して感想等を述べる類もあるので先ほどみたいなことになる可能性はあまりないでしょうが。
 
色々書きましたが、端的には確証バイアスの話です。これを回避するには情報入手について「これさえ利用していれば大丈夫」にならないことが重要だと考えています。そもそも、公正中立という概念が客観的に存在するかは怪しいものです。それでも、自らの情報収集のバイアスを自覚して、気色の違う情報源に触れることは公正中立という理想を考える上で必要なのではないでしょうか。そんな見飽きた主張をしたいだけです。

進路や胃痛

11月となりました。すっかり寒くなり、今日はミラクルムーンという話なのに曇り空だったりの昨今。とりあえず紅葉を見に行きたい気持ちがあります。

 

紅葉といえば、先月末に山に登って紅葉を堪能し、撮った写真をパソコンに写した矢先パソコンが臨終。これ以降胃痛に悩まされています。胃痛に関しては、パソコン関係がきっかけではありますが、今は進路の悩みが原因になっています。11月から業界説明会が始まり、公務員予備校の入学はラストチャンスでさあどっちだと問いかけられている気がしてなりません。民間と公務員で悩むうちに両方中途半端になる可能性も怖いですし。別に公務員には予備校でのダブルスクールが必須だとは思ってもいませんし、独学の進捗も悪くはありません。しかし、周囲の人の様子を見るとこれでいいのかと不安になるのが自分の性格。高3で周りが学校での自学自習を申し込んでいたことを思い出します。自分が職に何を求めていて、一長一短な民間と公務員からどちらを選ぶのか決断はできないままです。日によってブレますし。ここに悩みを書くくらいなら大学の就職支援室にでも行っておけという話でもありますが。

 

前述の類から陥る、「悩んで気づいたら片方の選択肢が消えていた」というものは過去に何度も経験しています。人生を振り返ると機会損失という言葉にまとめられそうなくらい。齢21でいい加減に進歩しろという話であります。何も考えずにスー過去進めるだけの作業の気楽さよ。

早口が数日ゆっくり話そうとして思ったこと

気がつけば10月も下旬に入り、大学からのメールには就活情報が踊り、学部の掲示板に業界研究会の貼り紙が見られる時となりました。いつぞやも話に出した気がしますが、昔から自分が言われることとして早口があります。本人としては普通に話しているつもりでも周りからはもっとゆっくり話せとコメントされるのです。そして、派生して受験シーズンには「面接で落とされるタイプ」と言われるわけで。インターンの面接で落ちるし、また別の面接の話でゼミにてアドバイスされたりもしたので、意識してゆっくり話してみよう考えて実行。以下、それから数日でわかったこと。

 

・棒読み気味になる

抑揚の付け方が普段のスピードに慣れているのか、はたまたゆっくり話すことに意識を割いているのが悪いのか全体に平坦な話し方になります。それでも抑揚あり早口か棒読み気味一般的スピードなら、初対面や選考が絡むところならおそらく後者の受けがいいのでしょう。さらにこれに関しては辛抱強く続ければ改善する可能性は高いと思います。

 

・とっさに言葉が出なくなる

会話時に脳内で作られる文章が早口で話される前提のため、その量や内容がゆっくり話すには不適になります。そのため、話す段階でストップがかかり何も言わないことに。思ったことがすぐに口に出ない点ではいいですが、作った文がそのまま放棄されるのはなんだかもどかしいです。

 

ちなみに、教授曰くここから3ヶ月が勝負らしく、その強調具合からよほど話し方で損をしているみたいです。とは言え早口と指摘されてはや16年ほど。三つ子の魂百まで。意識してゆっくり話そうとしてもまだ若干早口に思われているでしょうし、自宅などで気が緩んだら元通り。簡単にはいかないもので方法を模索中です。新聞をゆっくり音読してみるのはどうだろうかとか。

臀部と出来物

大学が始まったのは置いといて、臀部の出来物についての話。数ヶ月ほど前に臀部に小さな腫れらしきものがあったのが発端。そのうち治るだろうと放置していたら結構気になるサイズまで大きくなり、調べたら粉瘤という中に老廃物が溜まった袋である可能性が浮上。自然消滅はないとのことで皮膚科に行くか検討をしたのが1ヶ月ほど前です。ちなみに妹及び親に確認されたところ乳首みたいだったとかなんとか。それでもなんだかんだでずるずると引きずり9月末、ついに座ると軽く痛みがある程度にまで成長しました。潰れたのかと思いましたが萎むわけでもなく、触感から表面の皮膚がひび割れていることが判明しました。ここから膿でも出ているのかなと思いつつまた放置。今日になって再び親に確認してもらったところ、膿らしき白いものがあるとのこと。そんなわけでグイグイと圧迫して溜まっているらしい膿と血を出す流れになりました。曰く押すとどんどんしぼむとか。とりあえず出せるものをある程度出して消毒、ガーゼをして終了。粉瘤だと思っていたのですが、膿と血が出てきたことを考えると普通にできものなのかもしれません。今現在も椅子に座ると痛みがあり、ガーゼで抑えてますが血が出ている可能性もあります。まあ再び様子見ということにはなりますが。

 

出来物自体については時の流れに身をまかせることとしますが、この一連の過程で齢廿一にして親や妹に臀部を見せることとなってしまったのが恥ずかしいやら悲しいやらといったところです。何にせよ早く痛みが引いてついでに出来物も消えてくれることを祈るばかりです。

彼岸花と彼岸とか

なんだかんだで生きています。最近は積読と勉強を放置してスマブラに溺れる堕落が進行していますが一応元気です。

 

暑さも落ち着き「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉を連想し、彼岸花も咲く季節となりお彼岸だなと感じる頃になりました。とか書いておきながら、彼岸の時期がわかっていないということに気付き調べてみたところ。春分秋分)を中日とした一週間を指すようで。つまり今日は彼岸まっただ中だということです。適当に使っている言葉の意味をあまり把握してないことが多いと感じる今日この頃。

 

彼岸花の方は彼岸より若干早い時期から神社や河川で咲き誇っているのが確認できます。初めて彼岸花を見たのは小学校低学年の頃で、近所の神社の森林で赤く怪しい雰囲気を纏っていたことを憶えています。木々で暗い中に咲く赤い花という点もありますが、今思えば葉がなかったのも異様な雰囲気の一因だったのかもしれません。三倍体で種子ができない。根に毒があるが、水に晒せば抜けるために救荒作物の面もあるなど調べるとなかなか面白い特徴もあったり。その花の形といい異名といい、見ているとどこか別の場所に吸い込まれるような感覚に襲われます。

 

かくして秋分の日となり夏休みの終わりを感じて彼岸花を眺めて虚無感やら寂しさやらをしみじみと味わっています。ああ、人肌が恋しくなる……。

夏休み途中経過

早いもので今日で8月が終わり、大学生の夏休みも折り返しを迎えつつあります。とりあえず前半は旅行したり肉焼いたり帰省した友人と遊んだり暇をこじらせてミレー展行ったり大学のシンポジウムを聴いてきたりとまあ列挙するには一応足ることはやってきたように思えます。後半は現状ゼミ合宿程度しか予定がないのでお察しになりそうですが。

 

美術館と学術系のシンポジウムを2日連続で観て聴いて思うのですが、その分野への素人にとっては(小並感)と文末に付きそうな言葉しか出てきません。美術作品に対して技巧を語れず、学問や政策にも理解が足りずに頷くのみ。それなのに何故行くんだという話でありますが、恐らくは自己満足なんでしょう。一般的に見れば程度の高いものと接して考え、取り込むことで自己の価値を高めようとするようなもので、周りから見れば滑稽かもしれません。それでも、対象を理解出来ずともその経験と忘れつつあっても微かに残る記憶がどこかで役に立つと信じているから自分は足を運ぶのかもしれません。この点はだいたい忘れていくのに何故本を読むのかという理由に近く思えます。

 

とまあ柄にも無い意識が高いのか低いのかわからない話をしましたが、勉強に対してはあまり手を付けていないのが現状です。各種本は相変わらず積まれてます。試験勉強も勉強のうちと申し訳程度に公務員テキストを見ているのですが、キャリア目標が定まっていないので力が入れづらくあります。入学時に親が公認会計士やら税理士やらのダブルスクールを薦めていたのを思い出し、明確なゴールが存在していたためにその選択はありだったのかと今更思ったり。一方で友人が学者という選択の話をしてきたり……。大学3年の夏休みにもなって未だにキャリアに悩むのってどうなんでしょうね。主に就活面で残された時間は少ないので悔いが残るかもしれませんが早めにキャリア目標を定めたいものです。

1年半ほど日記をつけて思ったこと

大学1年の11月のあたりから日記をつけ始めました。理由は当時虚無感があったので生活記録を残しておけば充足感が得られるかなという感じの軽いもの。手書きだと出先で書くに不便そうなのでevernoteに入力する形で始めました。当初は数日に一回書く程度だったのですが、今となっては毎日書く習慣がついています。そこで日記によるメリットらしきものを簡単に書いてみようという話です。

 
・備忘録になる
見返していつどんな出来事があったのか思い出せる、それだけ。自分のようにデジタルで打ち込む形だと検索を利用できて便利です。「これって前もあった気がする」という場合に当時の詳細な内容が手に入るのは便利なものです。
 
・状況を俯瞰できる
トラブルがあった場合などに、時間を置いて一回文字におこすことで当時の精神状態から離れた分析がある程度可能になります。自分の落ち度も誰にも見せない日記でかつ文字ならば、まだ素直に出せるはず。
 
・明確に一日の終りを設定できる
日中の出来事をメモ程度に書くことはありますが、それを文章へと変えるのは基本的に就寝前です。日記を書くまでが今日です。その点で生活にメリハリがつくと言えるかもしれません。あくまでも一日の終了が定まるだけなので夜更かし等は度外視ですが。
 
・文章力のようなものが身につく
質が向上するかはさておき、文章を作ることに慣れるようになります。大学の教授も日記を付ける人の書く文章はある程度わかると暗に日記を推奨していまし、多分効果はあるはず。私の文章力については例外とみなします。
 
以上、1年半ほど日記をつけて思ったメリットになります。時々見返して顔を青くしたり自らの進歩の無さに愕然としたりすることもありますが、それも含めてなかなかに面白いのでこの機会に日記を始めてみるのはいかがでしょうか。